1945年8月6日、広島に原爆が落とされてから70年となります。
一瞬のうちに7万人、その後14万人もの多くの犠牲者を出した
人類にとって、決して繰り返してはならない大きな過ちの日であったと思います。
被爆者の方の平均年齢が今年80歳を超え、当時のことを語りづく人が少なくなっていることや
国会で安保法案が審議されていることもあり、今年の記念式典は特別な意味を持っているように感じました。
テレビでは、多くの番組で原爆がどれほどむごいものであったのか、
原爆投下が正当であったと考えるアメリカ人が原爆ドームを訪れ、
被爆者の声を聴いてその考え方がいかに変化したのかなど多くの報道がなされていました。
私は特に、式典の松井広島市長の平和宣言が心に残りました。
その中に「人類愛」と「寛容」という言葉が特に気持ちに沁みました。
少し長くなりますが、以下の言葉となります。
「1945年8月6日午前8時15分、その全てが一発の原子爆弾で破壊されました。
きのこ雲の下には、抱き合う黒焦げの親子、無数の遺体が浮かぶ川、焼け崩れた建物。
幾万という人々が炎に焼かれ、その年の暮れまでにかけがえのない14万もの命が奪われ、
その中には朝鮮半島や、中国、東南アジアの人々、米軍の捕虜なども含まれていました。
辛うじて生き延びた人々も人生を大きく歪(ゆが)められ、深刻な心身の後遺症や差別・偏見に苦しめられてきました。
生きるために盗みと喧嘩(けんか)を繰り返した子どもたち、幼くして原爆孤児となり今も一人で暮らす男性、
被爆が分かり離婚させられた女性など――苦しみは続いたのです。
「広島をまどうてくれ!」。これは、故郷や家族、そして身も心も元通りにしてほしいという被爆者の悲痛な叫びです。
広島県物産陳列館として開館し100年、被爆から70年。歴史の証人として、
今も広島を見つめ続ける原爆ドームを前に、皆さんと共に、改めて原爆被害の実相を受け止め、
被爆者の思いを嚙(か)みしめたいと思います。
しかし、世界には、いまだに1万5千発を超える核兵器が存在し、
核保有国等の為政者は、自国中心的な考えに陥ったまま、核による威嚇にこだわる言動を繰り返しています。
また、核戦争や核爆発に至りかねない数多くの事件や事故が明らかになり、テロリストによる使用も懸念されています。
核兵器が存在する限り、いつ誰が被爆者になるか分かりません。
ひとたび発生した被害は国境を越え無差別に広がります。
世界中の皆さん、被爆者の言葉とヒロシマの心をしっかり受け止め、自らの問題として真剣に考えてください。
当時16歳の女性は「家族、友人、隣人などの和を膨らませ、大きな和に育てていくことが世界平和につながる。
思いやり、やさしさ、連帯。理屈ではなく体で感じなければならない」と訴えます。
当時12歳の男性は「戦争は大人も子どもも同じ悲惨を味わう。
思いやり、いたわり、他人や自分を愛することが平和の原点だ」と強調します。
辛(つら)く悲しい境遇の中で思い悩み、「憎しみ」や「拒絶」を乗り越え、紡ぎ出した悲痛なメッセージです。
その心には、人類の未来を見据えた「人類愛」と「寛容」があります。
人間は、国籍や民族、宗教、言語などの違いを乗り越え、
同じ地球に暮らし一度きりの人生を懸命に生きるのです。
私たちは「共に生きる」ために、「非人道性の極み」、
「絶対悪」である核兵器の廃絶を目指さなければなりません。
そのための行動を始めるのは今です。
既に若い人々による署名や投稿、行進など様々な取り組みも始まっています。
共に大きなうねりを創りましょう。
被爆70年という節目の今年、被爆者の平均年齢は80歳を超えました。
広島市は、被爆の実相を守り、世界中に広め、次世代に伝えるための取り組みを強化するとともに、
加盟都市が6700を超えた平和首長会議の会長として、
2020年までの核兵器廃絶と核兵器禁止条約の交渉開始に向けた世界的な流れを加速させるために、
強い決意を持って全力で取り組みます。
今、各国の為政者に求められているのは、「人類愛」と「寛容」を基にした国民の幸福の追求ではないでしょうか。
為政者が顔を合わせ、対話を重ねることが核兵器廃絶への第一歩となります。
そうして得られる信頼を基礎にした、武力に依存しない幅広い安全保障の仕組みを創り出していかなければなりません。
その実現に忍耐強く取り組むことが重要であり、
日本国憲法の平和主義が示す真の平和への道筋を世界へ広めることが求められます。
来年、日本の伊勢志摩で開催される主要国首脳会議、それに先立つ広島での外相会合は、
核兵器廃絶に向けたメッセージを発信する絶好の機会です。
オバマ大統領をはじめとする各国の為政者の皆さん、被爆地を訪れて、
被爆者の思いを直接聴き、被爆の実相に触れてください。
核兵器禁止条約を含む法的枠組みの議論を始めなければならないという確信につながるはずです。
日本政府には、核保有国と非核保有国の橋渡し役として、議論の開始を主導するよう期待するとともに、
広島を議論と発信の場とすることを提案します。
また、高齢となった被爆者をはじめ、今この時も放射線の影響に苦しんでいる多くの人々の苦悩に寄り添い、
支援策を充実すること、とりわけ「黒い雨降雨地域」を拡大するよう強く求めます。
私たちは、原爆犠牲者の御霊に心から哀悼の誠を捧げるとともに、
被爆者をはじめ先人が、これまで核兵器廃絶と広島の復興に生涯をかけ尽くしてきたことに感謝します。
そして、世界の人々に対し、決意を新たに、共に核兵器廃絶と世界恒久平和の実現に向けて力を尽くすよう訴えます。」
先に、被爆の語り部が少なくなっていると申しましたが、
広島市では「語りべの継承人」を育てられているとのことです。
私の父は昭和7年、母は昭和9年に生まれて戦争を体験しています。
子どものころから、時々戦争の話を聞く機会がありましたが、
今年はいつも以上に戦争の話になります。
私の世代はかろうじて、親が戦争を体験した世代であると考えます。
まずは、自分がしっかりと「あの戦争」とは何であったのか考え、
そして次の世代に「戦争と平和」について、伝えていく義務があると改めて考えます。